消えた国鉄大隅線・金剛寺駅
街のうつりかわりは早いものだ。
鹿児島県国分市のような地方都市でもうつりかわりははやい。
わたしは帰りがてら、国分市の市街地にある旧国鉄大隅線金剛寺駅跡にやってきた。(「旧国鉄大隈線」ではないのでご注意を)
鹿児島県国分市国分駅から鹿屋駅を通り、大隅半島を横断し、鹿児島県最西端の町、志布志駅を結んでいた大隅線は昭和62年3月14日に廃止された。
国鉄廃線、赤字ローカル線廃止線のひとつだ。
大隅線は、同じ昭和62年の4月1日に発足したJR九州には引き継がれず廃止となった。
大学生のとき、平成七年ごろ、大隅線の廃線跡がどうなっているのか気になり、大隅線跡をたずね歩いたことがある。
鹿児島県国分市の大隅線の駅は、金剛寺駅、銅田駅、敷根駅と続いていた。
そのさい、鹿児島県国分市国分駅(JR九州日豊本線)のとなりにあたる大隅線金剛寺駅旧駅跡をおとずれたが、当時は草むしたホームがまだ残っていた。
大隅線の線路跡はたしか、そのまま舗装され、狭い道となっていた記憶がある。
いまは、鉄道が通っていたことなどウソのような変貌ぶりだ。
線路跡は車が頻繁に行き交う立派な真新しい道路となったようで、ホーム跡はおろか鉄道の名残りを感じさせるものはまったくなくなっていた。
それでも、道路脇にたつアパートに目がとまった。
記憶が確かなら、それは大隅線金剛寺駅の廃駅の隣りあたりにあった建物だった。
写真も撮ってあったはずだ。
懐かしの風景だ。
我ながらスゴイ記憶力と感心してしまった。
終わりに
じつはこの大隅線の鉄道廃線跡紀行など、一連の観光旅行日記の原稿を書き上げるのに二ヶ月ほどもかかってしまった。
わたしは文章を書くのが苦手で、大隅線の鉄道廃線跡紀行など旅はしたが、なかなか思うように文章にまとまらず、四苦八苦していた。
いろいろな先生方が書いた「文章読本」をよんだり、「ですます調」に書いてみたり、レポート調に書いてみたり、気分転換に金がないにもかかわらず小さなモバイルパソコンまで買って外で原稿を書いてみたり、と、いろいろ旅の文章化に取り組んだ。
しかし、あまりにまとまらないため、途中で、大隅線の鉄道廃線跡紀行などの一連の旅日記の文章化を何度もあきらたこともあった。
それでも、悩んだかいがあったのか、駄文ながら、なんとか大隅線の鉄道廃線跡紀行などの一連の旅日記の文章をひとつの形にこうしてまとめることができた。
すこしづつであるが、どういう風に書いていけば、文章にまとめられるかがわかってきたような気がする。
簡単に言えば、いいたいこと、結論から書く方法がわたしにはピッタリしていた。
これからも、わたしは大隅線の鉄道廃線跡紀行などのように日本各地を旅した模様を表現していきたい。
それが、文章になるか写真になるか、はたまた音楽か何かになるかわからないが。
今回は文章となったが。
文章にしろ何にしろ、これから作品(作品といえるものでもないが)を発表していくにしたがって、このおハズカシイ表現物もすこしづつマトモなものになっていくのでは、と思っている(楽観的すぎる!)。
今後も、大隅線鉄道廃線跡を歩くことなどをはじめととして、鹿児島、九州はもとより、日本各地をいろいろ旅して、作品を発表していきたいと思っている。
こんごとも、わたくしにおつきあいいただければさいわいです。
最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。