●なんだか無性に食べたくなった「たらの芽の天ぷら料理」
先日、山菜の、たらの芽の天ぷら料理を食べた。
岩手県の実家に帰ってきて、なんだか無性に山菜の、たらの芽の天ぷら料理が食べたくなった。
たらの芽の食べ方、調理法は佃煮料理などがあるが、なんだか、無性に、タラの芽の天麩羅料理が食べたくなった。
●新鮮な地物のタラの芽をゲット
夕方、岩手山麓の温泉からの帰り道。
何軒か無人野菜ショップに寄ったが、タラの芽はなかった。
さすがに旬の山菜だけに午前中で売り切れるのだろうか。
それでも、なんとか、車の止めずらいカーブにある、人の気配が少ない無人野菜ショップにはタラの芽はあった。
無人野菜ショップかと思ったら、奥に小さなプレハブの小屋があって、威勢のいいおばあちゃんが出てきた。
ここのタラの芽は栽培ではなく、山歩きをする人が今朝取ってきたものらしい。
強い岩手訛りの言葉で説明してくれた。
新鮮なタラの芽が身近に手に入るなんて、なんと素晴らしいことだろうか。
●たらの芽は、味ではなく触感を楽しむためにあるのか?
帰宅後、早速、おふくろが、たらの芽をてんぷらに調理してくれた。
さすがに地物の、たらの目はうめー、かった。
うまいといっても、たらの芽は味があるわけではない。
しょっぱくもからくもない。
無味乾燥な味だ。
だから、たらの芽は、サクサクというか、コリコリというか、そんな触感を楽しむためにあるのかもしれない。
●「タラの芽」を食べるのは、自然界の新芽のパワーを得るため
しかし、もしかしたら、タラの芽を食べるというのは、味や触感を楽しむためにあるのではないのかもしれない。
自然界の新緑のエネルギーをもらうために食べているのかもしれない。
自然界の新芽のパワーを得るために食べるのかもしれない。
人間が自然界のパワーを吸収するために自然と無性にタラの芽が食べたくなるのかもしれない。
人間の潜在意識の無意識の反応なのかもしれない。
●食事は、味を楽しむためにあるのではなく、自然界のエネルギーを吸収するためにある
と、考えると、もともとは、食事というのは、味を楽しむためでなく、自然界の植物や動物からパワーをもらうために行うものなのかもしれない。
昨今のグルメ料理ブームで、食事は、「味」ばかりに、視点が向いているが、本来、食事とは、自然界のエネルギーを吸収し、より人間がパワフルに生きるためにあるのかもしれない。
だから、できるだけ、「味」よりも、「素材」にこだわるべきなのかもしれない。
やはり、温室育ちの養殖物よりも、自然の荒波にもまれた天然物の方が、持つエネルギーが強力で良いのかもしれない。
もちろん、天然物の方が、栄養価も高いだろう。
●岩手の大地から生み出た、タラの芽からパワーをもらった俺、もっと、パワフルに生きるぞ!
それにしても、たらの芽が持つ、自然界の新芽のパワーってなんだか、スゴイ力がありそう。
そして、それを食べて、体内で吸収することができるなんて、素晴らしいことだ。
長い冬の眠りから覚めた岩手の大地から生み出た、タラの芽からパワーをもらった俺。
もっと、もっと、パワフルに生きるぞ!